「あそどっぐ」が、中日新聞と東京新聞に1月12日・13日付けで掲載されました!

NACU芸人あさっどぐが、「障害笑いに」をテーマに、
中日新聞と

中日新聞・東京新聞掲載内容(以下、全文抜粋)

<いのちの響き> 障害を笑いに(上)-1月12日付け掲載

ストレッチャーに乗ってネタを披露するあそどっぐさん=福岡市中央区で

 「皆さんどおもー、あそどっぐですう」。福岡市中心部にある飲食店。ステージ上で、ストレッチャー(移動式寝台車)に横になったままの男性がくぐもった声を張り上げた。

自ら「寝たきり芸人」と称するあそどっぐさん(38)=本名阿曽太一(たいいち)さん(熊本県合志(こうし)市)。昨年十二月中旬、九州一円のお笑い芸人が集まる競演会に出演した。

難病の脊髄性筋萎縮症のため、いま動かせるのは左手の親指と口、目、頬だけ。声量がないため、ストレッチャーには小型マイクを据えてある。

「観客の皆さん、盛り上がりが足りませんね」とあおった上で、「舞台袖に戻って入場し直すので、『ワー』っと盛り上がって迎えてください。小さいころに学校で教わったでしょ、『障害者には優しく』って」。笑いが起きると、してやったりの表情を浮かべた。

二年前から毎月、この舞台に出る。常連の北九州市八幡西区の会社員篠原信義さん(60)は最初、ヘルパーに押されたストレッチャーでステージに出てきたのを見て、「芸なんてやって大丈夫なのか」と心配になった。でも「こんな笑わせ方があるのかと新鮮だった。障害のある人に対する見方を変えていけるよう、活躍の場を広げてほしい」とエールを送る。

この日出演したのは十二組。約二十人の聴衆がパフォーマンスの良かった芸人に投票した結果、あそどっぐさんは下から二番目だった。面白いかどうかという基準に、障害の有無は関係がないのだ。「みんな、僕におまけしてくれないんですよね」

笑いには、ちょっとした毒が欠かせない。あそどっぐさんの場合、その毒は自分の障害だ。名古屋市で十二月上旬にあった福祉イベントで披露したのは、定番ネタの「寝たきりあるある」。

「生後半年のおいが寝返りを打った。おじを超えたな」

「満員電車に乗ると、立っているおじさんのお尻がちょうど顔のあたりにくる。たまに変な臭いがするんです」

「手が動かないから、僕のサインはヘルパーが書いている。サインを考えたのもヘルパー」

ただ、自分以外の障害者の障害をネタにすることはない。「他人のことを言うと悪口になっちゃうから」

本格的に芸人を志したのは二〇一一年の秋。初めは「障害をネタにするなと、批判されるのではないか」と恐れた。でも実際に寄せられたのは「気持ち悪い」「税金(障害年金)で食っているくせに」という感情的な言葉。何となく気が楽になった。むしろ、同じ障害者やその家族らから「もっとやって」と激励されることも増えた。

「聴衆はストレッチャーに乗った僕の姿ばかりが気になるもの。いくら面白いことを言えたとしても届かない」。障害をあえてネタにするのは、そんな聴衆心理を読み込んだ結果でもある。

障害のない聴衆が、障害をネタに「笑っていいのかな」と困ったような表情を浮かべた後に、思わず口角を上げる瞬間が、寝たきり芸人の妙味でもあるという。

「障害のない人が障害者に持つ違和感をぬぐうには、違和感のもとである障害を積極的に押し出してしまった方が早い」

(諏訪慧)

引用:<いのちの響き>違和感のもと押し出す 障害を笑いに(上)

 

<いのちの響き> 障害を笑いに(上)-1月13日付け掲載

<いのちの響き> 障害を笑いに(下)
ヘルパーの男性に見守られながら唇と、わずかに動く左手の親指でパソコンを使うあそどっぐさん。動画サイトに毎日投稿する=熊本県合志市で
写真
横になった顔の正面にはパソコンのモニター。マウスを口で動かし、顔以外で唯一動く左手の親指でクリック。「今からやるよ」とツイッターでつぶやいて、「寝たきり芸人」あそどっぐさん(38)=本名・阿曽太一(たいいち)=のインターネット生中継が始まった。

「六百七十六回目。今日も始まりましたー」。しゃべり続けるあそどっぐさん。今の視聴者数「146人」が表示され、「台車見せてー」などと視聴者が面白がって寄せたコメントの文字が画面上を横に流れていく。

「うちにあるのは台車じゃなくてストレッチャー。ストレッチャーは台車のように物を運ぶんじゃなくて、僕を運んでくれるのっ」。どんなコメントにも真剣に、時にギャグで答える。

三十分間の動画配信中に寄せられたコメントは四百件あまり。「ほとんどが愛情のこもった『いじり』。多くの人が目にしてくれてうれしい」と満足げ。配信は二年前からの日課だ。

生まれつき脊髄性筋萎縮症を患う。親元を離れて、熊本県合志(こうし)市で一人暮らしを始めたのは十二年前。自動車部品メーカーに勤務する父親が海外赴任でタイへ。単身赴任のはずだったが、生活を支えるため母親もほどなく渡航し、既に姉も独立。突然の一人暮らしに戸惑ったが、「自立してほしいという親なりの願いが込められていたと思う」と前向きに捉える。障害者支援に取り組むNPO法人に相談し、ヘルパーの介助を受けるようになった。

「寝たきり芸人」の出発点は、特別支援学校高等部一年のころにさかのぼる。

「おまえら、面白いことやれよ」。リーゼントで決めた三年生の先輩に学校の廊下で呼び止められ、命じられた。あそどっぐさんの隣には難病「筋ジストロフィー」を患う同級生、奥田耕一朗さんがいた。

卒業を控えた三年生を送り出す校内行事が数日後にあり、仕方なくお笑いコンビを結成。気軽につくったコントを生徒五十人の前で披露すると「思いのほかうけた」。人を笑わせる楽しさにはまり、修学旅行や学園祭など二人で演じるようになった。

卒業後、本格的にお笑いの世界に進もうと、通信教育で脚本の勉強を開始。ところが在学中から学校に隣接する病院で暮らしていた奥田さんの病気の進行は早く、二十三歳で死去。コンビは解散した。奥田さんは何をするにも一緒だった親友。「自分だけ好きなことを続けるのは申し訳ない」。一度は夢を諦めた。

転機は二〇一一年の秋。ヘルパーの男性から動画配信サイトを教わった。「これを使えば、寝たきりの自分でも笑いが届けられるかもしれない」。相方の死から、ちょうど十年。喪失感が薄れ、心のどこかで再開のきっかけを探していた。

「一年以内にテレビに出られなければ、今度こそやめる」。インターネット上を中心に活動を再開し、障害を織り込んだ笑いを打ち出した。期限の一年を迎えようとしていたころ、NHKEテレの障害者情報バラエティー番組「バリバラ」に出演が決定。持ちネタを披露すると、じわりと名前が広がり、公演の依頼が舞い込むようになった。

「俺らはきっと寿命が短いから、生きているうちに好きなことをやりたいね」。高校時代、奥田さんと語り合ったことをしばしば思い出す。ヘルパーの押すストレッチャーで私鉄と新幹線などを乗り継ぎ、十五日も福岡市のステージに上がる。

(諏訪慧)

引用:<いのちの響き>相方の分も人生咲かす 障害を笑いに(下)

 

 

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